2009/12/22

統計の世紀

数年前から、「統計の世紀」ということを考えている。

おととい、Googleが日本語入力エンジンを公開していることを知って、興味を抑えきれずに、ついついインストールしてしまった。

入力中、カーソルの下に変換候補が表示されるのだが、これが面白い。
たとえば、「がんだ」と入れると、「ガンダム」「ガンダムクロニクルバトライン」「ガンダーラ」が表示される。いまどきのFEPであれば「ガンダム」くらい入っていてもおかしくはないが、「がんだ」に対して「ガンダムクロニクルバトライン」はないだろう。なんだそれは。ゲームなのか。流行っているのか。思わずぐぐってしまいたくなる。

考えてみれば、Googleの検索ボックスほど“生の日本語”が打ち込まれる場所はないだろう。Google Suggestの検索語を打ち込むそばから候補を表示してくれる機能は、基づくデータベースが異なるだけで、要するに予測変換そのものだ。もう辞書はいらない。データベースがあればいい。

英語学習の世界では、これまた膨大な「生きた英語」を分解して分析して生成した「コーパス」が流行っている。言葉と言葉の結びつきを統計的に処理して、効率よく英語を学べるようにする学習法だ(と思う)。計量言語学なんて分野もきっとあるだろう。「朝日新聞における『、』『。』の使用頻度の変遷」なんて論文も、たぶんあるだろう。

話は全然変わるが、先日薬局に行って処方箋を示したら、面白いことを言われた。たまたま行きつけではない薬局を利用したのだが、薬剤師に「処方はここ半年変わっていない」ことを説明すると、「副作用の一覧表はお付けしますか? いつもの処方ということなら不要かと思いますが、一応、1000人中5人に出る副作用はお知らせすることになってますんでね」と言う。一応プリントアウトをお願いしたのだが、行きつけの薬局でもらったものと同じ文章だった。薬局用のデータベースがパッケージ売りでもされているのだろう。「眠くなることがあるので車を運転するな」とか、そういった類である。

面白いなと思ったのは、それが5/1000という確率、つまり0.5%を境目に、それ以上の確率なら副作用として明示する、と定められている(らしい)ことだ。副作用が出ても、それ以上なら副作用、それ以下なら不幸な事故、というわけだ。リタリンだったか、人によっては自殺念慮が出たりするらしくて問題になっていたような気がする。自殺は「眠くなる」とはちょっと副作用のレベルが違うので同じ枠組みで論じてはいけないのかもしれないが、それでもまあ、「80%には有効、「19.51%には作用なし」「0.49%には自殺念慮が出る」ということであれば、副作用一覧データベースには登録されないのかもしれない。

で、私も長く患っている持病があって、日常的にいろいろ困ったことも起きるし、治る見通しもあまり立っていなくてどうしたものかと日々思案しているわけだが、病気自体は非常にありふれているので、医者にしてみれば「ああまた来たか」というようなものだろう。当然治療法も確立していて、まず80%の患者に有効とされているこの薬を飲ませて、効かないようだったら残り20%のうちの80%に効くこの薬を飲ませて……を繰り返していけば、そのうち何か当たるに違いない。

患者本人にとっては一生の大事であっても、医者にとってみれば一日にさばく患者の半分がその病気だったりして、体質やらなにやら個性もあろうが、捨象してしまえばみな「●●病」でひとくくりである。医療の現場では、本質的に、患者は確率的操作の対象なのだ。

話がすっかり長くなっておりますが、結論としては、20世紀が科学と演繹の時代なら、21世紀は統計と帰納法の世紀になる。科学と演繹は金融工学を生んだが、統計と帰納法はGoogleを生んだ。

また戻る。

Googleが翻訳サービスを提供しているが、これも恐ろしいものだ。Google translator tool kitのhelpから引用しよう。

どのようにGoogleの翻訳とは異なる?人間の翻訳者からの介入なしにGoogleの翻訳'を提供し、自動翻訳'純粋な技術によって製造。対照的に、Googleの翻訳ツールキット人間の翻訳者はより速く、より正確には、Google翻訳のような技術で支援することができます。

まさにこのhelp自体、英語のhelpから日本語に自動翻訳されたものであり、上の文章を読めば翻訳のレベルがどの程度のものか知れてしまうので恐ろしさも半減だが、その発想自体は恐ろしい。

原理としては、たとえば日本語のドキュメントと、その英訳をGoogleに食わせる。似たような文書をどんどん食わせることで、日本語文に「ゴジラ」という6バイトの文字が出てくる時、英語文に「Gozzila」という単語が出てくることが多いようだという推測をさせるわけだ。この方式なら、日本語文を文法的に分析し、それを英語文として再構築し……なんて七面倒臭いことをする必要はない。食べれば食べるほど賢く育つわけだ。

どんどん思い出すなあ。筑波大学の研究者だったか、過去数年分の倒産した企業の財務諸表としていない企業の財務諸表をコンピュータに流し込み、人工知能に解析させて、倒産予測の方程式を作ったのだという。実際その式を見たことがあるが、財務諸表の特定の項目を変数に取り、それにわけのわからない定数(「0.002458」みたいな)で重み付けをしてあるという、まさに機械知性が生み出したに違いないグロテスクな式だった。もちろんその的中率は、公認会計士より高い(んじゃないかと思っているんですが、そんなことはないですか?)。

いい加減長いので、このへんでおやすみしますが、結論再掲。21世紀は統計と帰納法の世紀です。

2009/12/14

『くらやみの速さはどれくらい』

エリザベス・ムーン著 小尾美佐訳 早川書房 2008/12



PR再受講前から読んでいた長編SF。
再受講でPRがフィクションにも有効なことを知り、半分くらい普通読みしたところで、あらためて全体をPRして、たった今読了。

近未来、完璧な自閉症の治療法が確立している世界が舞台になっている。治療法は出産前ないし出産直後に施さないと効かず、主人公のルウはギリギリのタイミングでそれを受けていない。が、ブレークスルー前の治療を受けなんとか社会生活を維持するに足る能力を得て、彼と同じ境遇の人々と一緒に、高度に専門的なパターン解析の仕事をし、自活している。

ルウの視点を通して淡々と描かれる日常に、いくつかの出来事が起きる。フェンシングクラブの仲間だったドンに嫉妬され、いやがらせを受けたこと(と、それをきっかけに少しずつルウが変わり始めること)。会社が市場に出そうと考えている画期的な自閉症治療法(ただしチンパンジーでしか実験していない)の被験者になることを強要されること。そして、フェンシングクラブのマージョリに恋をすること。

画期的自閉症治療法は当初、リストラをちらつかせながら脅迫的に強要されたものだが、やがて健常者の中間管理職の奮闘で、フェアな条件で本人が適用を選べるようになる。ルウは煩悶しながらも、最後は……というところが物語のハイライトなので、ここには記さない。

それにしても、ルウの目を通して描かれる世界のなんと美しいこと。腕時計が反射した光が壁に明るい染みを作ることとか、回転螺旋のモビールがもたらす複雑な規則性がいかに音楽的で安らかなものか。ルウの住む世界を濃密に描くことによって、やがてやってくる避けられない「変化」は、対比的にある種の悲劇として、読み手の心を打つことになる(ただし、著者はその健常者的達成を成功とも不幸とも、達成とも喪失とも明言していない)。

その近未来的な設定によって、また作者のこれまでのキャリアから、本作はSFとされるが(ネビュラ賞受賞作だし、早川書房から出ているし、訳者は『アルジャーノン』の小尾美佐さんだし)、そのことが読者を選んでしまうのであれば不幸なことだ。同じ近未来を舞台にしたカズオ・イシグロの『私を離さないで』がどれくらい読まれたかは知らないが、かの作品が作者のキャリアによって純文学とされるのであれば、本作も同じ扱いを受けていいように思う(が、もしかしたら「純文学」の方が「SF」より市場が狭かったりして)。


さて、PRの効果だが、ちょっとは有ったように思う。以下、そのやり方。

読む目的を、「ギミックを楽しむ」「文体を楽しむ(『アルジャーノン』のように、きっと叙述のスタイルで主人公の知能や境遇が表されるだろうと思ったから)」、「ストーリーを味わう」として、5分くらいでPR。「構造」では、特にタイトルのない21章構成であることを押さえ、トリガーワードでは登場人物名を拾い、簡単なMMにまとめた。スーパーリーディング&ディッピングやスキタリングは行なわず、高速リーディングで最後まで読み進んだ。

効果があったのは、さまざまな登場人物が(ルウとの関わりの中で)出てくる際に、つねにルウを中心点に置いて、ルウとの関連で登場人物を捉えられたこと。「あれ、この人誰だっけ? 味方だっけ敵だっけ?」がなくなって、ストーリーに集中することができた。

登場人物の多い小説はわりと苦手で(同じ理由で登場人物の多い映画も苦手)、敵ー味方関係なんかを薄ぼんやりとしか認識しないまま読み進んでしまうこともあったのだが、登場人物MMを作るというのはよかった。玉川先生に教わったんだけど。ひと手間かけることで物語により深く集中できるのであれば、やらない手はない。

フィクションにおけるPRのメリットを実感した一冊にもなりました。

2009/12/13

『アフリカ・レポート』

アフリカ・レポート―壊れる国、生きる人々 (岩波新書)
松本仁一著 岩波新書 2008/8

元朝日新聞のアフリカ・ウォッチャーによる、アフリカの現状のルポ。

本書で描かれているのは地中海沿岸地域を除くアフリカ全域。東部ソマリアから西部シエラレオネから南端の南アフリカ共和国まで、貧困と戦火と絶望に喘ぐアフリカの現在を素描している。

「猪木対アミン大統領」(という異種格闘技戦の構想がかつてブチ上げられたことがあった)などで、アフリカはすごいことになっているらしいというのはなんとなく知っていたものの、いや実際すごいことになっていた。

飢えや旱魃もすごいんだが、それに対する政府の無策ぶりがもっとすごい。

石油の輸出代金は政治家や役人のポケットに入っておしまいだし、民衆の怒りの矛先を大規模農場を経営する白人に無理やり向けさせて、なんの農業的知識も持たないチンピラに農場を占拠させてあっという間に荒れ地にしてしまう。植民地時代は農作物の輸出業であった国が、独裁の数十年で自給率数十パーセントの最貧国に転落する。下っ端の役人には給料の遅配は当たり前で、警察官や兵士、公務員がどんどん辞めていく。医者や技術者などの中間層は国外に逃げ出しいなくなる。独裁や民族対立がひどくなると国境を突破して隣国で流民化する。

俗に「政治腐敗」などと言うが、徹底的に腐敗した政治が、こうまで破壊の限りを尽くせるものとは知らなかった。何一つ生産的なことはせず、植民地時代に築かれたインフラの発展どころか維持すらできない。

ODAでも物資の援助でも、政府を経由したら最後、それが民衆に届くことはない。つまり、政府対政府の枠組みで行なわれるすべての活動は無効、ということだ。

筆者は希望をNGOや民間企業による進出に見ているが、そうした活動もまた頻々と腐敗政府の干渉を受ける。1960年代からウガンダに進出している日本の衣料品メーカーがあったのだが、ウガンダが社会主義国となったことで工場も設備も国有化(=私物化)され、あっという間にスクラップになったそうだ。その後、日本でアフリカ関連の国際会議が開催された際、大統領自らが「やっぱり戻ってきてくれ」と頼んだというのもすごい。で、それに応じてまた行く日本人もすごい。初めてウガンダに工場を作ったのが1966年。その時の担当者が齢70になって単身赴任で頑張っているのだそうだ。

アフリカに対する、中国資本の進出が著しいというのも初めて知った。台湾の向こう岸にある福建省の出身者が多いらしい。中国は二億人(って、日本の人口の倍ですよ)の潜在的余剰労働力を抱えていて、いわば「押し出し圧」のようなものが常に働くのだそうだ。で、日本にもアメリカにも行くけれど、アフリカにも行くわけだ。
工場がなくとも本国はすでに「世界の工場」で何でも安価に作れるし、地縁血縁のネットワークがあるから、まあ小さな商店を切り盛りするくらいのファンドはなんとかなる。
政府は政府で、トップ外交というかトップセールスを繰り広げていて、ひも付きODAをとっかかりに大資本もかなり入り込んでいる。受け入れる側にしてみれば、中国人がやってきて橋やら道路やら作って帰っていって、でも誰もメンテナンスできないから数年でダメになって……となるわけだ。

あんまりすごすぎて、結論も思いつかないわけだが、無理やりひねり出してみよう。

かつてマックス・ウェーバーが資本主義の背後にプロティスタンティズムを見たように、ある制度には、その制度を裏打ちするあるメンタリティが必要なのではないだろうか。
で、すごい偏見かもしれないんだけど、部族主義のメンタリティと、多部族国家という体制と、近代的な民主主義制度と、資本主義っていうのは、もしかしたら最悪の組み合わせなのかもしれない。多部族国家に民主主義を載せてしまうと、簡単に権力の独占が起きるし、資本主義はもちろん資本の一定の集中を前提とした仕組みだ。

歴史の歯車は後戻りしないが、狩猟採集をベースにした部族主義を、あまりに性急に近代化したために、こんな途方もない悲劇が起きてしまったように思えてならない。かといって、いまさら「ちょうどいい政治経済制度を思いつくまでサバンナでガゼルを狩ってなさい」というわけにもいかない。

著者が最終章に持ってきた、衣料品メーカーやNGOの事例は確かに希望ではあるけれど、そのささやかな成功とアフリカの巨大な闇を対比した時、私は言葉を失ってしまう。
そして、そんなアフリカに中国がトップとボトムから取り付き始めているという構図もまた、なんだかすさまじい構図である。

なんかもう、どうしていいかわからないので、原稿終わりにしていいですか。
すいませんねもう。







つまりPhotoReadingとは……(図書館編)








誰かに「シャコバサボテンを株分けするにはどうしたらいいかを図書館で調べてきて」と言われて、図書館の本を片っ端から読み始める人はいませんよね。
普通は、案内板などで図書館の書架の配置を大まかに把握して、求める本が置いてありそうな棚に行って、「サボテン」「育て方」などのキーワードを頭の隅に置きながら、背表紙をサーチしていく、という方法を採るはずです。


実は、PhotoReadingってそういうことなんじゃないか、って思います。
ただしスケールが異なります。「図書館」=「PhotoReadingする本」で、「株分けの方法」=「目的の情報」です。


一冊の本の中から、自分が必要としている情報の場所を推定し、確認し、引っ張りだす方法。それがPhotoReadingの本質です。


私たちは長い時間をかけて「本は頭からお尻まで読むもの」という暗示を掛けられていますから、PhotoReadingの方法では「読んだ」気がしないのも事実。白状しちゃえば、私もそうです。


ここを乗り越えられるかどうかが、PhotoReadingを習慣化できるかどうかの最大の難関なのだと思います。


しかし、責任は「本は頭から〜」のメンタル・ブロックを乗り越えられないでいる私たちだけにあるわけじゃないとも思います。


よくも悪くも、PhotoReadingには表の顔と裏の顔があるんですよね。


表の顔ーーまったくPhotoReadingのことを知らない人に対しては、「速読」「10倍速く本が読める」といった言い方で、伝統的な本の読み方でスピードだけが上がるような印象を与えています。まあ、そういう打ち出しじゃないと、本も売れないだろうし、講座に人も集まらないでしょう。
で、裏の顔は、「伝統的な読書法に対して、10倍速く自分が必要とする情報をピックアップできる、画期的な情報検索術」という言い方。いや、「裏」は言い過ぎかな。上記のようなことは、『[新版]あなたもいままでの10倍速く本が読める(10倍本)
』にも書いてあるし、講座でも冒頭で教わることです。読んでいる、聞いている私たちがこのことをなかなか理解しないだけで。
「PhotoReadingは読書術・速読術じゃなくて、紙に情報を印刷してあるひとまとまりの情報からいかに効率的に自分が必要としている情報を見つけ出し理解できるかを追求した情報検索術である」ーーを、意識の上でも、体感的にも、理解できたかどうかが、PhotoReadingを習慣化できるか、元の逐語読書法に戻ってしまうかの差なのではないか、と思います。


と、偉そうに書いてきましたが、私自身、先日の講座の冒頭で玉川先生に「PhotoReadingは読書術じゃありません。新しい学習法だと思ってください」と言われるまで、気が付いていませんでした。同じことを園先生にも言われていたし、何度か読み返した『10倍本』にも明記してあったにも関わらず。それほど「PR=速読術」という刷り込みは強かった。


というようなわけで、たとえば「1冊まるまる、大扉から奥付までの間にあるすべての文字を目で捉えること」に達成感を感じるタイプの読書を望む方には、PRは全然お薦めできません。


それから、「写真を撮るようにページを画像として記憶して云々」という、右脳系マジカル読書術を期待される方も、思ってたのとちがーう!って思うんじゃないかな。
そういうマジカルなことを行なうステップもありますが、実はPR全体のプロセスの中で、マジカルな部分のウェイトはそんなに大きなものではありません。
むしろしごくまっとうで、本来の目的を念頭に、本全体の構造を把握して、求める情報がありそうな箇所を絞り込んでいって、明確に理解する、というやり方です。要約力とか、洞察力とか、文脈掴み力とか、受験現代文的なテクニックとか、そっちの力の方が必要とされるし、鍛えられもするでしょう。


というわけで、ちょっと前まで私自身も明確に問題化できていなかった「伝統的な読書法とPRの違い」について気が付いたもんですから、長々と書いてみました。


でもね、実はちゃんとマジカルもあるらしいんですよ奥さん! フィクションを読むときに、こうしてこうしてああすると……という話は、また今度書きますね。

2009/12/11

みかん集中法が10倍効くようになるコツ

これは、園先生に教わった秘伝の技です。

PRに、「みかん集中法」って出てきますよね。
あれをやるときは、
1 おへその前あたりで、みかんを左右の手でお手玉するように転がす
2 利き手でみかんを持ち上げてきて、くんくん匂いを嗅ぐ(ついでに冷たさとか、ぶよぶよしてるとか固いとか)
3 利き手でみかんを後頭部の上の方に持ってくる
というのが公式の手順ですが、3をやるときに、

 鼻から額、頭頂、後頭部と移動していくみかんを、目をつぶったまま目玉で追いかける

ようにすると、効果が10倍になります(自分比)。


理屈はうろ覚えなんですが、目線を上に上に持っていくと、変成意識状態に入りやすい、というようなことだったと思います。
そう言われてみると、“イッちゃってる人”ってたいがい、目線を上に持っていきすぎて白目になってますね。トランス中のシャーマンとか。

で、理屈はともかく、「目をつぶって目線上→目線戻して目を開ける」と、ちと眠いような、ぼーっとしたような、トランスちょい手前、みたいな感じになるんですよ実際!

仕事で、あと30分で企画書仕上げないといけない!とかよくあるんですが、焦ってきたらまず「園式みかん集中法」をやって、落ち着いて取りかかるようにしてます。
うん、2年間で、これだけは確実に習慣になったな。

お薦めです。

講座遍歴

実は私、PRの講座もMMの講座も、2回ずつ受けてます。

PRには昔からすごく興味があったんですけど、あまりの受講料の高さに手を出せないでいました。
が、勝間和代さんの『無理なく続けられる 年収10倍アップ勉強法』に「あいまいな部分が解消されただけでも受けた価値があった」というような(うろ覚え)ことが書いてあったのを読んで、そっか、そういう考え方もあるよね……って思って講座への申し込みをしたんでした。

で、勝間さんご推薦の園善博さんの講座を受けたのが2008年1月(今は独立されて、独自の速修セミナーを主宰されてます)。

PRの講座では、最後の方でMMの書き方も教わるんですが、MMがメインの講座ではないので、あまり詳しくはやってくれないのです。となるとふつふつと「MMもちゃんと教わりたい」という気持ちが湧いてきて、半年後に倉橋竜哉さんのMM講座を受けました(PRに比べればお安いしね)。倉橋先生の講座にしようと思ったのは、もともとカウンセリング関連のお仕事をなさっていたということで、心理分析などがお得意というコピーに惹かれたからです。

MMは書くようになったんですけど、PRの方はすっかりお留守になってました。手順が煩雑なんですよね。教科書通りにやろうとすると。
PRのフォローアップのメーリングリストにもすっかり投稿しなくなってた頃に、同じPRの講座を受けた同窓生が、「再受講してきました! すっごい楽しかったし、モチベーションも上がった〜! 玉川先生最高!」と興奮した様子で投稿していて、それに刺激されて、「PRの受講生は5000円で再受講できる」制度を利用して、同窓生ご推薦の玉川一郎先生の再受講生募集を待つこと半年(すぐに満員になっちゃうので)。やっと先週の土日に受講して、同窓生の言葉を理解するとともに、「ちとblogでも書いてみるか」という気になったのでした。

なんか個人的な覚え書きみたいになっちゃいました。
いずれ、それぞれのインストラクターの方の教え方の違いとかも(カリキュラムは本部でガチガチに固められてるのかと思いきや、けっこう自由度があるのか、「あれ、これ、園先生に教わってない!」とか、「玉川先生はあれは教えないのかー」とか、いろいろ発見があったんです)書いてみたいなと思ってます。

どうぞよろしく。

こんにちは。PR-MMです。今日からblogを書いていきます。どうぞよろしく。


2年くらい前にPhotoReadingの講座を受けて、それから半年くらい後にMindMapの講座を受けて、
「ブリップページが見えないけどこれで本当にいいのか?」とか「どこの何ペンが一番使いやすいんだ!」とか
「ていうかPRってけっこう手間かかって普通に読んだ方が早いじゃん」とか「どこのノートが書きやすいんだ」とか、
本質じゃないところで引っかかっちゃったり、飽きちゃったり、また盛り上がっちゃったり、
おそらく多くのPRerやMMerが通ってきたであろう道を、私もまた、三歩進んで二歩下がる感じで歩いてます。


PRやMMをテーマにしたblogは多いけど、先輩たちはすでにスキルを完璧に身に付けていらして、
私みたいな道半ばの、あるいは「なんちゃって」PRer、MMerにはなんだか高嶺の花に見えちゃったりもするのです。


ふとモチベーションが下がってしまった時、方向を見失ってしまった時、励ましてくれるのは、
αな先輩の有名blogじゃなくて、自分と同じレベルのPRer、MMerの失敗談だったり、
発見報告だったり(こうしたらうまくいったよ!)、今日はさぼっちゃったよ、っていうつぶやきだったり。


だからこのblogは、まだまだちゃんとしたPRer、MMerとはいえない私の、見当はずれの試行錯誤をご提供することにしました。
読んでくれた方に、ほんの少しでも役に立てばいいな、と思ってます。